会社役員の私は土曜日が休みだが
週明けに余計な残務を持ち越さないようにこの数年間は土曜日も昼前後に出社している
年末大掃除を「自分なり」にやってきただけなので
土曜日に机を整理しているとその度に掘り出し物が出てくることがある
昨日( 2022 / 04 / 02 )はなかなかに良い宝物が見つかった
上記の画像はかつて西洋占星術に親しんでいた頃の私のホロスコープだ
もう西洋占星術のメソッドで自分を確かめていたのは何年前か分からない
多分4年前かもう少し前くらいまでは西洋式の知識を忘れないでいたとも思う
私がジョーティッシュを学んだ師を含めて
インド式の占星術に精通する方々は西洋占星術に否定的である
まず西洋式の占星術は細かな知識があまりに略されていて
個々人の長所短所を見積もるのに非合理的だからだというのが大きい
これが私にとっても不思議なところであり
西洋というのは科学(化学)による客観的な合理主義で現代社会を拓いた主役であるのに
占いがまだまだサブカルチャーの外延に置かれてしまっていて
そもそも非現実なままでいいとされるマイノリティの分野に取り残されている
ちょうど200年前のイギリスで工業化の近代的手段が現実化し
家庭内の生活文化が酷く犠牲になり
他国に誇る郷土料理がほぼ無いということと同じだろう
その西洋占星術が今なおファッションの一種としてもてはやされるのは
抽象的で単純なまま読み手が勝手に拡大解釈し
無責任にファンタジーを語れるからでもある
とはいえ
私も男のくせに占い好きでその趣味が捨てられないからこそ今このブログを書けているのだ
西洋占星術が果たしたその務めは大いに有意だと思う
さて
これは私の生年月日を西洋式で診た場合の各惑星の配置である
アセンダント(ラグナ)は天秤座の13°34の位置になり
私のラグナロード(アセンダントのルーラー)は金星ということになってしまう
ジョーティッシュでは私のラーシのラグナは乙女座であり
金星の減衰する星座が自分を指すために私は金星的な人や物が苦手な性格となり
チャラ・カーラカでも金星はグナティ・カーラカに当たり
確かに西洋占星術がいかにイイ加減で当たっていないか印象としてよく分かる
しかし
惑星間の角度をアスペクトと見なす西洋式の所見はそこまで不適当と言えるほどでもなく
一通り眺めれば私の人物像を一応は説明できているようである
例えば
ジョーティッシュで扱う「ナクシャトラ」の概念に呼応する定義に
西洋占星術の「サビアン」がある
私のアセンダントのサビアンは以下の通りである
いつも疲れていて「もっとちゃんと休みたいのに・・・」と思っている私をよく表意できている
鬱病を克服できたつもりだが今の私は木星期に入ってもイチイチ鬱々としている
私がジョーティシャーになるには今も続く会社経営者としての生活を投げ出す以外にない
恵まれた家庭に生まれ両親から褒められて育ち正しく自己実現できた方からすれば
「仕方の無いとっつぁん坊や」の私は
ジョーティッシュを歩み進むことでしか賢くなれない大人になってしまった
また一方で
アセンダントの次に重要な月のサビアンは次の通り
このサビアンも非常に象徴的で今の私をよく指し示してくれている
なおこのサビアンには別名があり「キャンプファイヤーを囲む集団」とも呼ばれている
これは主観的にもよく当たっていると言える
大学時代にかなり本格的な政治系サークルに入っていた過去の私を的確に表せている
天秤座というのは温厚で平和ボケしている印象があるがサビアン次第ではそんなこともない
かつての私はそこで特異な思想を持つやたらと大人びた同士の学生らと友達だったものだ
そこで私は精神的に二度目の初恋を経験したりもした
それはジョーティッシュで過去生の私を指す惑星が逆行した機能的凶星の火星だからだろう
極端な理想に憧れを持ち場合によっては酔狂な自己主張を見せる射手座の性格が働いている
それから
私を西洋占星術で見える化した時のラグナロードである金星は
このサビアンシンボルで表意されている
月が位置するサビアンと併せてよく私を説明できていると思う
私がやっと自分らしく平穏を保てているのも
ジョーティッシュを学び続けてこのブログを始められたからである
また
金星というのはジョーティッシュでは4室の表示体であるため
ナヴァムシャで金星が4室に住んで12室に在るラグナロードと星座交換する私は
「独りでドライブを楽しむ」ことが数少ない趣味にもなっている
まさに「誰にも遠慮せず1人で(≒12室)好きなことをやると心がスッキリする」時間である
そしてまた
これは私の西洋占星術の吉意凶意それぞれのアスペクト表だ
改めて見直してみてもジョーティッシュのラーシと完全に違うとは言えない配置がある
ジョーティッシュで私を指す水星は木星と最も大きい吉意の角度を取り
水星が住む星座がやはりまた10室蟹座でMCという天頂の部位で緩く合になっている
要するに水星は西洋占星術の所見としてもかなり強く
私のラーシやナヴァムシャでマハープルシャになったり星座交換で高揚並みになることを
ほとんど正しく翻訳しているように見える
西洋式では水星が敵対星位の蟹座に住みながら強くなっており
連想や着想に恵まれやすく物事の正誤に関係なく妄想気味に文脈を敷いていく私の癖を示す
(それが結果的に占断として合っていたり間違っていたりするのは
火星が5°ほどのオーブでオポジションした配置でやはりラーシと重なる所見のせいである)
またその火星が木星と吉角を取るのも
ナヴァムシャでラグナ対7室に生じたグル・マンガラ・ヨーガの配置に通じるだろうし
太陽がドラゴンヘッド・ドラゴンテイル両方と吉角になる配置が木星の配置を翻訳している
それはおそらくナヴァムシャのラグナから木星がアスペクトバックすることや
ダシャムシャでまた木星がラグナに住んでラージャ・ヨーガとなる強さの証明だろう
そして個人的に独特な符合があると感じてしまったのが
この西洋式でラグナロードに当たるアセンダントのルーラーの金星が
最も強い影響力を持つ冥王星と94°ほどの凶角をもっている所見だった
性的魅力を担う金星がドーピング的影響力のある冥王星と関わると
相当に異彩を放つような個性を本人に与えるとのことである
明らかにラーシの8室に住むラーフとディスポジターの火星が4室に住む配置を指している
以前に挙げた記事で私は自分の手相が際立って変化していることを書いたが
所与の定義で強いセックスアピールを持つ金星帯が左手に3本あり右手に4本ある
手相鑑定士が初対面の私を診たら内心「性犯罪者かなぁ・・・」と苦笑いするのが私の特徴だ
幸い闘病で用いた抗鬱剤が私の脳や身体を隅々までスポイルしたため
甘美な性的繊細さが今の私には残っておらず最近は加齢で疲れやすくなり
早い話が恋愛は激しいスポーツのようにシンドいだけだと思うほどになった
肯定的な手応えを感じる所見が多かったが
この金星と冥王星の凶角の配置だけは大人になった今の私を説明できていないと言える
西洋占星術の時運を占う技法(「プログレス」と呼ぶスキル)というのはちゃんとあるようだが
そうした専門的技能を正しく適用している一流の西洋占星術師は今のところ見たことがない
別に私は西洋占星術やその術者を批判できるほどの立場でもないが
大抵の西洋占星術鑑定士は自らのブログ等で
西洋占星術の知識を拡大解釈的な物語として披露し
実際の具体的物理的問題にメスを入れていく科学的アプローチを全く持たないようである
一言だけ意見させていただくならば「その方が商売として上手くやっていける」からだろう
現在においても占いは娯楽的側面が根強く技芸や演芸として人を楽しませる手段のままだ
だから私はより良い人助けの方法論となりうるジョーティッシュを選んだのである
例えば占術の知識を経てから西洋式の時運判断を探っていけば
以下のような無料占断のサイトはちゃんと見つけられたりするものだ
有意な所見としては
右側のアスペクト一覧でネイタル(ラーシ)の金星がプログレス(流年)の太陽と合を作る点だ
プログレスとは「一年一日法」とも呼ばれ
自分の生年月日に対し年齢を日数に置き換えて二重円を作り相互の角度の吉凶を診る
また更に別の占断フォーマットの画像を以下に追加すると
上記の図の場合それぞれ吉凶を意味した角度(アスペクト)において
左側(「LEFT」)の列がネイタル(ラーシ)の惑星で
右側(「RIGHT」)の列が一年一日法で導出した時運に当たる惑星である
その角度が2°未満という厳密なオーブの範囲内で有意なアスペクトになれば
その惑星が担う象意の経験がもたらされると見なす占断法である
(外側のホロスコープは時運として流年の運勢を示し内側のホロスコープはラーシを指す)
ラーシに当たるネイタルの月に対しては
流年の土星がオーブ1°未満のタイトなセクスタイル(吉角)を取ったり
同じくネイタルの金星に対しては
流年の太陽がオーブ2°未満でコンジャンクションになっている
この位相からは
自分のメンタル(月)が正しい目的のためにプレッシャー(土星)を受けることになり
つまり自分の恋愛等の交友(金星)がかなり大きな外からの影響(太陽)で転機を迎える
と読める
それはナヴァムシャの配置がそのまま働く直近の「木星期」の時運を翻訳するものであり
7室(恋愛・結婚)と10室(職業・社会生活)を木星が同時に支配してラグナに住む配置を指す
あくまで私が自己流に占断しているに過ぎないが
このように西洋占星術の時運判断は十全な知識を踏まえれば
ジョーティッシュと対照させて整合した判読にも出来ることがわかる
占断の知識とその技術はもちろん一つに絞られるべきだが
正しく知見を積み重ねた途上において補足的に相互の近似性を確かめられるのであって
けしてどちらが正しくてどちらが間違っているということもないと私は思う
占いは意味と目的さえハッキリしていれば誰かに対し答えを示せる手段になると言える
結局は何を学ぼうとするかというその一歩目の踏み出し方である
きっと役に立たない占いは一つも無いはずだ
誰かを救いたいとするその志が最も重要なのである
以上
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