インド仏教を蘇らせた奇跡の日本人─導師・佐々井秀嶺のラグナ検証
更新日:3月27日

インド仏教最高位の日本人僧侶(82)命をかけた52年目の闘争(藤岡利充) - 個人 - Yahoo!ニュース
ジョーティッシュを通じインドを知っているようで全く無知だった私に
これまた久しぶりに雷が落ちる出会いが起きた
ほとんど1ヶ月前のことになるが
お馴染みの老舗クイズ番組日立 世界ふしぎ発見!で
インド特集が組まれていたのを後になり見つけた
放送内容の半分ほどは
現在公開中でアカデミー賞も受賞した超大作インド映画RRRに因んだ映画スタジオ取材で
それとは別に本稿の題材とする人物も取材された

日本からインドに渡って実に55年以上にもなる佐々井秀嶺という僧侶が紹介されていた
かつて本名を「佐々井実」(ささい・みのる)とした佐々井上人は
途方も無い紆余曲折と苦悩の積年を戦い抜いて
今やインド仏教1億5千万人の頂点に立つ本物の大導師である
私はこの混じり気の一切無い超一流のグルを知り
時間の無い中で書籍を購入したり過去のドキュメント映像を見たりして
自己流で出来る限りその人物像の把握に取り組んだ
仏門に入るまでのその生い立ち

( 出家して間もない25歳当時の佐々井秀嶺氏 )
佐々井上人の半生は言うまでもなく並大抵のものではなかった
そのため先ずは氏の仏道入門までの道のりを以下にまとめる
( できれば読了していただきたいが相当に長いので読み飛ばしも可 )
1935年8月30日
旧・福井県阿哲郡菅生村( 現・新見市菅生 )に生まれた秀嶺氏は
中学生になったばかりの頃までは勉学に秀でた賢い少年だったが
14歳で原因不明の熱病のような健康異常を来し
「頭も体も正しく働かなくなって」しまう
その後15歳になってから一度も学校に行くことがないまま
卒業した扱いになっても心身不調で高校進学ができず
一念発起でご両親に上京して東京で自活したい意志を伝え
単身上京しご両親から受けた軍資金を頼りに
新宿区鶴巻町に在った東京正生学院という職業訓練所のような学校に入学する
そこでは吃音症状やノイローゼを生活習慣で矯正したり
街頭演説を実演させて心気症を治す独自のリハビリ療法が行われていて
曰く「極度のあがり症」だった少年時代の秀嶺氏は
みるみる自信を取り戻し
身も心も年齢相応の健全さを改めて会得するに至った
東京で知り合った友人らのツテで定職に就いたりしたが
18歳で帰郷を決意し岡山に戻ると
実父に頼み込み土地と建物を借りて炭や生薬を扱う薬草院を開店した
また
偶然にも事業を起こしたその店のすぐそばに下宿してきた女子高生と懇意になり
ほとんど結婚を約束し合うほどの恋仲になるも
小学生の頃から「女の身体に興味があり過ぎたのだ」と本人も認めるほど好色だった氏は
東京時代に度々に花街へ通っていた過去や
父方の家が大変な旧家で妾を複数人も囲っていた “ 女難の血統 ” だったことを自覚し
将来に漠然と気後れを感じ始めていた
(事実その実父は秀嶺氏から見た祖父の正嫡ではなく妾の子だった)
そして偶然に用事があって訪ねた未亡人宅で
実父がその女性と不倫しかけていた場面に出くわし
驚くと同時に自分の身体に流れる「色情因縁の血」に絶望し
そのまま仕事を投げ出し
異郷の地の青森まで電車を乗り継いで
北海道に向かう連絡船の舳先から入水自殺しかけて失敗した
( 甲板を歩いていた客船用務員に見つかり引き留められた挙句に何度も殴られたそうだ )
失意のどん底から帰路を進むも郷里に戻ることは当然できなかった
かつてのように再び東京に落ち着くと
糊口をしのぐだけの職探しをしたが長続きせず
完全なホームレス状態にまで陥って
献血で血を売って生活費を稼ぐ等する困窮ぶりで
最後はうらぶれ者たちで作る窃盗団に加わって万引きで逮捕されたりした
そんな生活を23歳頃まで続けてやっと岡山に帰って来ると
案の定やはり実父が不倫を重ねていたことで生家は崩壊し
稼業だった薬草院もとっくに閉業( 廃業 )となって
許嫁だった女性にも別れを告げるしかなく
地元町に深い因縁だけが残った生活を受け入れらない秀嶺氏は
叔母が暮らす鳥取県米子までまたも歩を進めた
仕事もせず叔母の家に居候して虚しい日々を酒でごまかして過ごし
昼となく夜となく酔っぱらって家の外で警官に拾われては叔母の家に帰り
その翌日から同じことを繰り返す生活が続くばかりだった
心の底から救いが欲しくてたまらなかった23歳の青年は
ヘベレケなまま本屋に入ると東西の様々な哲学書などを買い上げて
「これできっと楽になれる」とその時だけ満足し
家の中には読まれない本が山積みになっていた
子供というには年を取り過ぎた秀嶺氏の我が儘にも全く機嫌を損ねない温厚な叔母は
優れた処世術で巧みに近隣の教育関係者や学校長の知人に “ 根回し ” し
何とも見事に秀嶺氏をその地域の高校へと特別に入学させたほどだった
しかし社会人1年生くらいの年齢の者が
16歳になるかどうかの「お子様だらけ」の環境で
自由に学びを楽しむことなどは出来る訳もなく
その高校が甲子園で準優勝したことを祝う凱旋パレードを目にするや
悔しさと惨めさが大粒の涙になって溢れ出し
23歳の高校生は単身で米子から東側の大山( だいせん )へと向かい
再び自殺悲願の本懐を遂げようとした
鳥取県西伯郡大山町に着いたのはいいが
着の身着のままで大山の中腹まで登った時には夜になり
凄まじい寒さにブルブル震えて耐えているうちに朝が来てしまう
清らかな山の朝焼けに湿っぽい諦めがすっかり晴れてしまい
下山してくると今度は京都の比叡山に行ってみたくなり
「徳の高い比叡山の周りならどこかの寺に押しかけても小僧にしてくれるだろう」と
十代の頃に一度だけ誓った出家の志が不意に滲んだ
しかし結果は惨憺たるもので
比叡山に着いてみればそこはどこにでもある観光地のようであり
物見遊山に来た相手を道案内する僧侶の俗っぽい姿が散見され
飛び入りした寺の境内に踏み込んで棟の玄関から奥を覗くと
あろうことか若い僧侶がレコードで歌謡曲を聴いている
諦めきれずに弟子入りを懇願するも
「ここで働く坊主なら誰でも大卒なんだから中卒のお前を受け入れる訳にいかない」と
あまりに理不尽な答えを突き返された
ひたすら湧いて来る失意と怒り
それでも鳥取に帰りたくない秀嶺氏は
「山梨の大菩薩峠に行こう」と思い直す
中里介山による同名の小説『大菩薩峠 (小説)』の主人公・机龍之介のセリフを思い出し
「死ぬなら勝手に死ね」と自分が言われているように感じた秀嶺氏は
その言葉を真に受けて山梨県まで数日かけて辿り着き
学生服にゴム靴という出で立ちで身も心もくたびれ切っていた
足裏に血豆を作ったまま疲れと痛みに耐えながら
またも大菩薩嶺の頂上を目指したが
山梨の奥の秘境たる大菩薩峠は本当に命の危険に関わる寒さであり
「俺は孤独だ・・・人間は偽善者だらけだ!もういいんだ!!俺はもう消える!!!」と
力強く叫んで道中の崖先から身を投げようとしたその時だった

「待て
お前はいま死んだんだ
いまのお前は生まれ変わったお前だ
もう過去は無い
大菩薩峠がお前の生まれた場所だ
だから過去はもう振り返るな
将来に向かって進め」
深い闇の中から突然にハッキリと声が聞こえ
普通の人間相手に会話するようにして秀嶺氏はその声とやり取りした
比叡山の時と同じように鮮やかな夜明けを迎え
その声の主が妙見菩薩だったのではないかと思いながら
秀嶺氏はいよいよ気力体力の限界に差し掛かっていた
下山がまだまだ終わっていないまま林道の向こうに寺らしい建物の屋根が見えた
そこで秀嶺氏は行き倒れてしまった
行きずりの参拝者に助けられて運び込まれた先は真言宗・大善寺だった

縁起 -真言宗智山派 柏尾山 大善寺- (daizenji.org)
当時の住職だった井上秀祐和尚に
「君は宗教というのをやるか?やるならここに置いてあげるよ」と呼びかけられ
飛び上がって喜んだのはよかったが
その当時でも檀家を持たず葡萄園の運営と寄進だけで生計を立てていた大善寺は
本当なら見習い坊主をかばう余裕など無かった
やっと僧侶の修行を始められて1年ほどを経ると
井上和尚から「もっと立派な寺で修業を続けて得度しなさい」と促され
東京・八王子の高尾山薬王院に転籍する橋渡しを請け負ってくれることとなった

高尾山薬王院について | 心のふるさと 祈りのお山 高尾山薬王院 (takaosan.or.jp)

先々代貫主・山本秀順
25歳にしてついに叶った得度の礼
法名を授かった1960年8月8日に青年・佐々井実は僧侶「佐々井秀嶺」となったのである
こうして今現在へとつながる上人・佐々井秀嶺の歩む仏道の長い長い道が開かれた